
8月11日21時に母が亡くなりました。享年87歳。心筋梗塞による突然の死でした。20時すぎに心停止との連絡をもらい、救急車で運ばれた広島大学病院に駆けつけた時はもう回復の見込みはないと医師に告げられました。
高度救命救急センターの中、母に取り付けられた救命機器の停止に同意し、僕の目の前で母は息を引き取りました。会ってから3分と経ってない間でした。触った頬はすでに冷たくてとても悲しかった…。
このブログでも何度か母のことを書いたことがあります。個性的な発想をする女性で、勘違いも多かったし、わがままなところもあったと感じます。ただ割と美しい人だったので周りに許されたところがあったのでしょう。
僕の幼い頃、飾り棚に『二十四の瞳』の置物がありました。12人の子供たちが大人の女性1人を取り囲んでいる有名な銅像です。女性の姿が少し母に似ていたのでよく覚えています。小豆島へ旅行した誰かにもらったものかもしれません。
僕が小学校に上がるくらいの時、これは何の銅像かと聞くと母は言いました。「飛行機の墜落事故で亡くなった子供達の像よ」と。いつの間にか像を見なくなったが、引っ越しした時にきっと捨てられたのかと思います。
ご存知の通り、『二十四の瞳』は壷井栄の小説で、映画にもなった有名な作品です。何をどうしたら飛行機事故の犠牲者を悼む話になるのか。後年この話を母にしたところ、「そんなことがあったかいね?」と素っ気なかった。笑
小説には「瀬戸内海べりの一寒村」としか記されてないが、壷井の故郷が香川県小豆島であるためか映画の舞台は小豆島でした。たまたま僕が香川県の大学に行ったこともあり、母は何度か香川の地を訪れることになるのです。
大学2年の時、気胸で入院を余儀なくされ、母がひと月くらい高松市にある僕のアパートに住み込み看病を続けてくれました。この時の話はその後、母から度々聞かされます。彼女は広島から離れて暮らしたことがなかったので印象深かったのでしょうね。
アパートの壁が薄くて隣人が見ているテレビ番組が丸分かりだったとか。浴室にお湯を張ると配管が錆びているせいか赤いお風呂につかることになるとか。朝の通勤時間は自転車があまりに多くてまるで中国に来たみたいだったとか…。
数年前に高松支社長で赴任した時、何度か高松観光に誘ったのです。有名な旅館の予約までしたのですが母の気まぐれで実現できなかった。小豆島に連れて行き、再度『二十四の瞳』の像のことを話してやろうと企んでいたのですがww
父が亡くなったのは母がちょうど50歳の時でした。父ほど優しい人はもう現れないと言って、再婚する気は全くなかった。最近は認知症が進んでいたせいか、父とののろけ話を繰り返し聞かされていました。
今頃は大好きだった父と久々に会えて、仲良く会話していることでしょう。87年間、お疲れ様でした。本当にありがとうございました。あなたに似て、僕も勘違いの多い人生ですが、このまま生きていこうと思っています。
『二十四の瞳』の像の話も、あなたじゃなく実は僕の記憶違いだったかもしれません。近頃、僕はますます自分がポンコツになったような気がしています。あなたを失ったことも、僕の勘違いだったらいいのになぁ。